たねいちゲンとオレ物語 | 作曲課題の苦い思い出
タイトルは完全にネタです。すいません。
SMAPのアルバムにも作曲者として名を連ねる種市弦という男がいます。
ぼくはこの種市弦と同級生でした。
とはいえ、向こうはぼくのことは憶えていないだろうけど。
この種市弦と作曲のことで、ずっと心に引っかかっている苦い思い出があります。
作曲の宿題
当時、音楽の授業で作曲の宿題が出たことがありました。
8小説くらいのメロディーを各自作ってきて、リコーダーの演奏で発表するというもの。
「そんな宿題楽勝だぜ!」
既にこの頃独学で作曲していたぼくはポップでキャッチーなメロディーを作りました。
コードも組んで作りましたが、発表はリコーダーなので単音になってしまいます。
単音でもメジャー7thやドミナント7thなどのコードが感じられるようなメロディーを作りました。
そして発表の日
ぼくの発表の時間は教室がそれなりにザワついたのを憶えています。
「アニメの主題歌みたいだ」というような声も。
クラスのみんなは作曲などしたことがない人が大半です。
当然作ってくる曲はクラシックの練習曲みたいなのばかりなのでぼくのメロディーは浮いていたのでしょう。浮いているということは「人とは違う」ということです。
ぼくはそれなりの優越感を感じていました。
・・・その時までは。
根本から違った
その時が来ました。
そう、種市弦が発表する番です。
ところが・・・先生が言います。「種市君はピアノで発表したいそうです」
種市弦は自信満々の物腰でピアノの前に座ると、クラシックの練習曲とは似ても似つかないポップな曲を弾き始めたのです。
その時ぼくは思いました。
なぜ・・・なぜおれはピアノで発表しようとしなかったのだろう?いや、おれなら家で打ち込んだバックパートをテープに吹き込んで、それに合わせた演奏だってできたはずだ・・・と。
そうすれば、今ぼくの記憶に鮮烈に残っている種市弦のようにクラスのだれかの記憶にぼくの演奏が残ったかもしれない。
ぼくはこの作曲という課題の「リコーダーで発表する」という部分を絶対ルールだと自分で決めつけ、自分の作曲の力を最大限に出すことを放棄したのです。
音楽をアピールするということ
今では音楽をアピールすることに全く抵抗はありませんが当時のぼくにはその貪欲さがなかった。
アピールすること自体が恥ずかしいと考えていたかもしれません。
誤解されそうですが、ぼくは当時から作った楽曲には自信があったし「どうせ自分の音楽なんてダメだ」的なことは思ってませんでした。
にもかかわらずアピールという行為ができなかったのです。
種市弦はその点が違った。
ピアノでの発表については事前に先生に確認し用意周到に準備していたのでしょう。
音楽を聴いてもらうにはアピールが必要です。
いい音楽さえ作っていれば勝手に誰かが拾い上げてくれる、なんてのは幻想です。
あれからだいぶ経つけれど、自分の音楽をどうやったら人に聴いてもらえるかを考えるとき、種市弦のことをいつも思い出してしまうのです。
お前は誰だ。ごめんね。自分も弦ちゃんと中学から同じクラスだったのでね。
名乗っても誰にも憶えられていないと思うな。1回も目立ったことがない。音楽はやってたよ。
種市くん懐かしいね!自分も同級生で同じ学校でした!当時から才能に溢れてる感じあったなあ!
おお!じゃあぼくとも同級生ですね?だれだろう~?
学年で一番背が高かった、武井です。
覚えているかな?
なるほど、ジャンボ(笑)
でも、ごめん、思い出せないなぁ。卒アル引っ張り出してみますかね。